
防災士として沿岸地域で10年間向き合ってきたこと
私は防災士の資格を取得してから10年以上、主に沿岸部の自治体や地域コミュニティと連携して防災啓発活動を続けてきました。
活動の中で最も痛感するのは、「知っているつもり」と「実際に動ける」の間にある大きな溝です。津波避難に関しては特にその差が顕著で、ハザードマップを見たことがある方は多くても、家族全員で実際に避難経路を歩いたことがある方はごく少数に限られます。
この記事では、私が現場で見聞きしてきた失敗談や試行錯誤のプロセスを交えながら、津波避難経路を家族で確認することの意味と、その具体的な方法をお伝えします。データや経験に基づく内容が、読者の皆さんの行動につながれば幸いです。
日本の沿岸部における津波リスクの現状
日本は世界でも有数の津波リスクを抱える国です。内閣府の発表によれば、南海トラフ巨大地震が発生した場合、最大クラスの津波が太平洋沿岸の広域に到達すると予測されており、最悪ケースでの死者数は32万人超に上るとされています(内閣府「南海トラフ巨大地震の被害想定について」2012年公表・2020年更新)。
また、消防庁の調査データでは、津波による死者の多くは「逃げなかった」「逃げるのが遅れた」ことに起因すると分析されています。2011年の東日本大震災における津波犠牲者の検証でも、避難行動を開始するまでの時間的なロスが生死を分けた事例が数多く記録されています。
内閣府の「防災に関する世論調査」(令和4年度)では、自宅周辺のハザードマップを確認したことがあると答えた人は全体の約60%に達しています。しかし同調査の中で、家族と避難場所・避難経路を話し合ったことがあると回答した人は約40%にとどまっており、確認と共有の間に大きなギャップがあることがわかります。
さらに、実際に避難経路を歩いて確認した経験を持つ人となると、データ上では著しく少なくなる傾向があります。国土交通省や各自治体が公開しているハザードマップの閲覧率は年々向上していますが、「地図を見た」ことと「体で覚えた」ことには大きな差があります。
津波の恐ろしさは、その速度と予測の難しさにあります。地震発生から沿岸部に波が到達するまでの時間は、震源の位置によっては数分という場合もあります。その短い時間の中で正確な判断と迅速な行動を取るには、事前の経路確認と家族間の合意形成が不可欠です。
特に沿岸地域では、高齢者や小さな子どもを抱える世帯の避難速度が大きな課題となっています。消防庁の「避難行動要支援者の避難に関する取組指針」でも、要配慮者を含む世帯への個別計画策定が推奨されていますが、実効性ある取り組みはまだ十分とは言えません。「知識」を「行動」に変えるための具体的なステップが、今もっとも求められています。
初めてハザードマップを手にした日の後悔
防災士の資格を取ろうと思い立ったきっかけは、居住する市から送られてきた一枚のハザードマップでした。それまで漠然と「津波が来たら高台に逃げる」とは思っていましたが、地図上に色分けされた浸水想定域を見て初めて、自宅が最大3メートルの浸水リスクゾーンに入っていることを知りました。
衝撃を受けた私はその日のうちに家族に地図を見せ、「ここが危ない」と説明しました。しかし妻は「どの道を通るの?」と問い返し、私は答えられませんでした。子どもたちは地図そのものに関心を示さず、話し合いは10分も続きませんでした。
その後も「いつか確認しよう」と思いながら、数ヶ月が過ぎました。転機になったのは、自治体主催の防災訓練に参加したときです。訓練で実際に指定避難場所まで歩いてみると、地図上では近く見えた場所が、実際には急な坂道の連続であることがわかりました。子どもを連れていたら間違いなく時間がかかる。そう実感した瞬間、「地図を見ただけでわかった気になっていた」自分への後悔が押し寄せてきました。
この経験が、私が防災士として「経路を歩く」ことの重要性を伝え続けるようになった原点です。地図は出発点であり、ゴールではありません。目で見た情報を、足で確かめることが命を守る準備の本質だと今でも強く思っています。
子どもと一緒に歩いて見えた「大人目線」の落とし穴
資格取得後、最初に家族と避難経路を歩いたのは秋晴れの日曜日のことです。小学2年生だった長男と、4歳だった次女を連れて歩き始めました。
大人の足で15分と見込んでいた経路は、子どもたちのペースでは30分近くかかりました。それだけでなく、途中で次女が「段差が怖い」と立ち止まったブロック塀の隙間や、長男が「ここ暗くて怖い」と言った路地の存在も、大人だけで確認していたら見落としていたはずです。
もっと気になったのは、地図上で「近道」として設定していたルートが、実際には車の交通量が多い道路であることでした。津波警報が発令された場合、同じ道を車が殺到すると想定されます。その混雑の中を子どもと歩くのは危険だと、現地を歩いて初めて判断できました。
結果的に、私たちが「本経路」として設定したのは、地図上では遠回りに見える住宅街の路地でした。車が入りにくく、段差も少ない。子どもと歩いたからこそ選べた経路です。
この試行錯誤を経て、私が地域の防災講座で必ず伝えるようになったのが「家族全員で、実際に歩く」という原則です。特に子どもや高齢者がいる世帯では、最速ルートではなく「全員が安全に移動できるルート」を選ぶことが優先されます。机上の計画と実際の体験は、全く異なる情報をもたらしてくれます。
夜間を想定した訓練で気づいた「昼間の安心」の危うさ
家族と経路確認を始めてから2年ほど経ったとき、「夜に歩いてみよう」と提案しました。大地震はいつ起きるかわかりません。夜間の避難を想定した訓練も必要だと考えたのです。
夜の経路は昼間と全く異なる景色でした。街灯が少ない区間では、自分たちがどこにいるのかさえ判断しにくく、昼間は目印にしていた建物の看板も暗くて見えません。子どもたちは「こんなに暗いの?」と驚き、次女は歩き慣れた道なのに「怖い」と私の手を強く握り締めました。
この体験で、照明の重要性を改めて認識しました。当時の私たちは懐中電灯をリュックに入れていましたが、実際には両手が塞がった状態での操作が難しく、ランタンタイプの明かりがあればよかったと感じました。
また、夜間に全員が集合できるかという問題も浮かび上がりました。私が職場にいる時間、妻が買い物に出ている時間、子どもが学校にいる時間——それぞれの状況で、誰がどこに向かうかを明確に決めていなかったことを、この訓練で初めて課題として認識しました。
翌日、家族で「家族連絡シート」を作成しました。それぞれがどこにいる場合にどこへ向かうか、連絡が取れない場合の合流場所はどこか、を書き込んだシートです。夜間訓練がなければ、この重要な「抜け」に気づかないままだったかもしれません。
高齢の両親を含めた経路確認で学んだ速度の現実
私の両親は、海から1キロほどの距離にある家に二人暮らしをしています。父は70代後半で膝に持病があり、母は足腰は丈夫ですが方向感覚があまり良くありません。
帰省した際に一緒に避難経路を歩いてみようと提案したとき、父は最初「わかってる」と言って乗り気ではありませんでした。しかし実際に歩き始めると、父の歩行速度では指定避難場所まで45分以上かかることがわかりました。南海トラフの震源域によっては、沿岸への到達時間が20〜30分とも言われています。時間的に厳しい現実を、数字ではなく「体感」として理解してもらうことができました。
その結果、両親の自宅近くで、より近い高台を新たな「第一避難場所」として設定し直すことになりました。公式な指定避難場所ではありませんが、海抜10メートル以上の高台にある公園で、徒歩15分で到達できます。自治体にも確認したところ、指定場所へ向かうことが困難な場合はより近い高台への避難を優先するよう案内されました。
この経験から私が学んだのは、「指定避難場所に向かうこと」が目的ではなく、「津波に飲み込まれないこと」が目的だということです。教科書的な正解にこだわることで、かえって命のリスクが高まることがあります。家族の身体的な状況に合わせた、現実的な計画こそが意味を持つのです。
訓練後に変わった家族の防災意識と日常の変化
継続的に避難経路の確認を行うようになってから、家族の日常の意識が少しずつ変わってきたことを感じます。
長男は中学生になった今、外出先でも「津波が来たらどこに逃げるか」を自然に考えるようになりました。旅行先の宿に着くと「ここ海に近いね、逃げ場どこだろう」と言い出すのは、私が教えたわけではなく自然と身についた習慣です。
妻は最初、防災訓練への参加を「面倒くさい」と感じていたようです。実体験として、最初の2〜3回の訓練では明らかに乗り気ではありませんでした。しかし経路を繰り返し歩く中で「ここは危ない」「この道は通れない」という感覚が蓄積され、今では私が提案する前に「そろそろ確認しに行こうか」と言うようになりました。
次女は今、小学5年生です。学校での避難訓練の話を夕食時にするようになり、「学校の避難場所と家からの避難場所は違う」という認識を自分から整理して話していました。子どもが防災を「他人事ではないこと」として捉えているのを見るとき、続けてきた意味を感じます。
一方で、いまだに課題はあります。避難経路の確認は年に1〜2回程度しかできておらず、道路工事や建物の変化に追いつけていない部分もあります。完璧ではない現実を認めながら、できる範囲で続けることが重要だと考えています。
家族で津波避難経路を確認するための実践的なアドバイス
避難経路の確認を「特別なイベント」にしないことが、長続きする秘訣です。週末の散歩、お出かけのついで、帰省の際など、日常の延長線上に組み込む意識を持つと継続しやすくなります。
まず取り組んでいただきたいのは、お住まいの自治体が公開しているハザードマップの確認です。国土交通省の「ハザードマップポータルサイト」では、全国の浸水想定域を地図上で確認できます。自宅の浸水リスクを把握した上で、高台や指定避難場所への経路を複数設定することをおすすめします。
次に、家族全員で実際に歩くことを計画してください。その際のポイントは以下の点です。まず、子どもや高齢者のペースで所要時間を計測することです。大人だけで歩いた時間は、実際の避難時間とはかけ離れている場合があります。また、昼間だけでなく夜間の状況も確認してください。明かりの有無、目印になるものが見えるかどうかが大きく変わります。
複数のルートを設定することも重要です。一つのルートが塞がれる可能性を常に想定し、代替経路も家族全員が把握しておく必要があります。それぞれの家族が別の場所にいる場合の合流地点と連絡手段も、事前に決めておくことが欠かせません。
最後に、定期的な見直しを習慣化することをお勧めします。道路状況や家族の身体状況は変化します。年に1回以上、経路の確認を行う日を決めておくと継続しやすくなります。
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よくある質問
Q. ハザードマップで浸水域に入っていない場合でも、経路確認は必要ですか?
必要です。ハザードマップは想定される最大クラスの浸水域を示していますが、実際の地震や津波の規模は事前に正確に予測できません。また、浸水域外であっても、避難経路の途中に危険な箇所がある場合があります。さらに、近くに住む家族や知人が浸水域内にいる場合に備えて、その地域の状況を把握しておくことも大切です。「自分は大丈夫」という思い込みが、行動を遅らせる原因になることがあります。
Q. 子どもが小さくてまだ経路を覚えられない場合、どうすればよいですか?
小さなお子さんの場合、経路を「覚えること」よりも「慣れること」を優先してください。繰り返し同じ道を歩くことで、体が道を記憶します。また、万が一親と離れた場合の対処として、子どもの服や持ち物に自宅住所・連絡先・避難場所を書いたカードを入れておくことも有効です。学校や保育園と家庭の避難場所が異なる場合は、学校の先生にも家庭の計画を伝えておくと安心です。
Q. 避難経路の確認はどのくらいの頻度で行えばよいですか?
最低でも年に1回は実施することをおすすめします。理想的には春と秋の2回、昼間と夜間で1回ずつ行えると、様々な状況への対応力が高まります。また、家族構成が変わったとき(子どもの入学・転校、高齢の親との同居など)や、引っ越しをした際には必ず経路を見直してください。道路工事や建物の建て替えで経路状況が変わることもあるため、定期的に現地を確認する習慣を持つことが重要です。
🔍 防災士が伝える、津波避難経路を家族で確認すべき理由をチェック
「知っている」を「動ける」に変えるために
津波避難経路の確認は、一度やれば終わりではありません。家族の状況が変わり、道路環境が変わり、想定されるリスクも更新されます。その変化に合わせて、繰り返し確認し続けることが本質的な備えです。
私がこの10年で最も実感しているのは、「準備は安心を生む」ということです。経路を歩いて確認した家族は、いざというときに「どうすればいいかわからない」という恐怖から少し自由になれます。それは命の安全を高めるだけでなく、日常の心理的な安定にもつながります。
完璧な準備は誰にもできません。しかし「少しずつ、続けること」は誰にでもできます。まずは今週末、家族でハザードマップを開いてみることから始めてみてください。その一歩が、最も大切な準備の始まりです。




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