
はじめに:私が地域防災の世界に入った経緯
私が防災士の資格を取得したのは、今から15年ほど前のことです。当時は自治体の防災担当職員として働いており、大規模災害の被害想定づくりに関わっていました。
しかしその頃の私は、ハード面の整備——避難所の設備や備蓄倉庫の充実——こそが防災の本質だと信じていました。地域コミュニティの力については、どこか「精神論」のように感じており、重要性を見くびっていたのです。
その考えが根本から覆されたのは、大規模水害の被災地支援に入ったときでした。物資が届かない孤立集落で、生き延びていた人たちの共通点は「隣近所とのつながり」でした。備蓄品の量でも避難経路の知識でもなく、「誰かが状況を把握してくれていた」という事実が、生死を分けていたのです。
それ以来15年間、防災士として地域の自主防災組織の立ち上げ支援や訓練の企画運営に携わりながら、近所付き合いと防災の関係を考え続けてきました。本記事では、その経験から得た知見をお伝えします。
日本の「近所付き合い」の現在地:データで見るつながりの希薄化
近所付き合いが防災に直結するとはいっても、現代日本のコミュニティはどのような状態にあるのでしょうか。まずは公的データをもとに現状を確認します。
内閣府が実施している「社会意識に関する世論調査」では、近所との付き合い方について継続的に調査が行われています。同調査の近年のデータでは、「よく付き合っている」と答えた人の割合は年々低下傾向にあり、特に都市部では「あまり付き合っていない」「まったく付き合っていない」という回答が増加しています。
総務省の「令和4年版情報通信白書」においても、孤立・孤独に関する問題意識が高まっていることが示されており、コロナ禍以降に地域のつながりがさらに薄れたという報告が複数の調査から読み取れます。
一方で、内閣府「防災に関する世論調査」では、災害時に「近所の人と助け合える」と感じている人の割合と、実際に「近所との付き合いがある」と答えた人の割合がほぼ比例していることが示されています。つまり、日ごろの付き合いの有無が、災害時の共助意識に直接影響しているのです。
消防庁の統計においても注目すべきデータがあります。阪神・淡路大震災において、倒壊した建物から生存者を救出したのは約77%が「家族や隣人」であったという記録が残されています。消防や救助隊による救出はわずか約8%に過ぎませんでした。
この数字は25年以上が経過した今も変わらない真実を示しています。大規模災害の発生直後、公的機関が機能するまでのあいだ、人の命を救うのは「知っている誰か」なのです。
しかし問題は、その「知っている誰か」が都市部を中心に急速に減りつつある点にあります。国立社会保障・人口問題研究所の推計では、単独世帯の割合は今後さらに増加すると見込まれており、地域の目が届かない「孤立した個人」が増え続けています。
防災の観点からすると、これは備蓄品が一つ足りないといった問題よりもはるかに深刻です。物は後から補充できますが、人と人のつながりは一朝一夕には構築できないからです。
体験エピソード①:「声をかけなかった後悔」から始まった気づき
私が近所付き合いの重要性を痛感した、最初の体験をお伝えします。
支援活動で訪れた被災地の仮設住宅に、70代の女性がいました。彼女は大雨の夜、自宅2階に逃げた状態で一晩を過ごしたといいます。夫はすでに亡く、一人暮らしでした。
翌朝、水が引き始めてから彼女が最初にしたのは、隣家の玄関を叩くことでした。しかしそこには誰も来なかった。隣に住んでいた夫婦は前日の夕方に避難していたのですが、彼女はそれを知らなかったのです。
「夕方、お隣の車が出ていくのは見えていたんです。でも、声をかけるような仲じゃなかったから」と彼女はぽつりと言いました。
この言葉が、私の中に刺さり続けています。隣家の人が悪かったわけではありません。お互いに「声をかけるような仲じゃない」と思っていただけです。ほんの一言「避難しますね、よろしければ一緒に」という声があれば、彼女は一人で暗い夜を過ごさずに済んだかもしれない。
この経験から私は、地域の自主防災研修で「声かけの練習」を取り入れるようになりました。最初は笑いながら参加していた住民の方も、「実は隣の人の名前を知らない」という現実に気づくと、表情が変わります。
顔を知っていること、名前を知っていること、それだけで「声をかけるような仲」になれるのです。この小さな積み重ねが、いざというときの初動を大きく変えます。
後悔から始まった気づきでしたが、今では「声かけ訓練」が私の防災研修の核になっています。失敗談や後悔は、最良の教材になることを、この体験が教えてくれました。
体験エピソード②:自治会の防災訓練が「形だけ」だったころの試行錯誤
防災士として地域活動を始めた当初、私は既存の自治会防災訓練を活用しようとしました。しかし当時の訓練は、消火器の使い方の実演と炊き出し体験が中心で、参加者の多くは「年に一度の義務」として来ていました。
訓練後のアンケートでは「参考になった」という回答が9割を超えていましたが、私が感じたのは「何も変わっていない」という違和感でした。名前も顔も知らない人と並んで訓練をして、終わればそれぞれ帰っていく。これは本当に「助け合える関係」を育てているのだろうか、と疑問を持ちました。
そこで私は試行錯誤を重ね、訓練の冒頭に「近所の人と自己紹介をする10分間」を設けることを提案しました。最初は自治会長から「時間の無駄では」と反対されました。しかし実施してみると、反応は想定以上でした。
「あの方が同じ棟に住んでいるとは知らなかった」「足が悪いとは聞いていなかった」という声が相次いだのです。自己紹介の時間を通じて、住民は互いの状況を初めて把握しました。
翌年の訓練では、前年に知り合った人同士が自然にグループを作り始め、「うちのお父さんは足が悪いから一緒に逃げてほしい」「私は夜勤があって不在のことが多い」という具体的な情報交換が自発的に起きました。
訓練の中身より先に、「人を知る機会」を作ることが大切でした。この失敗と試行錯誤から、私はコミュニティ形成を防災訓練の前段階として位置づけるようになりました。
体験エピソード③:隣人の「ひと声」が早期避難につながった事例
数年前、私が支援している地域で台風による大雨警報が発令された夜の話です。その地域は河川の近くにある低地で、過去にも浸水被害を経験していました。
避難指示が出るより2時間前、自治会の防災担当だったAさんが自分の判断で近隣を回り始めました。「雨が強くなってきたから、念のため避難の準備をしておいてほしい」と声をかけて歩いたのです。
これは公式の避難呼びかけではありません。Aさんが「おかしい」と感じた直感と、日ごろのつながりに基づいた行動でした。
Aさんが声をかけた世帯の中に、一人暮らしの高齢女性Bさんがいました。Bさんはテレビをつけておらず、雨音に気づいてはいましたが「まだ大丈夫だろう」と思っていたといいます。Aさんの声かけがなければ、Bさんは避難指示が出るまで動かなかった可能性が高かった。
その夜、Aさんの周囲の世帯は全員が早期に避難を完了しました。実際に河川が氾濫し、Bさんの自宅は床上浸水しましたが、人的被害はゼロでした。
重要なのは、Aさんがこの行動を取れたのは「Bさんが一人暮らしであること」「テレビをあまり見ない習慣があること」を日ごろの付き合いの中で把握していたからです。
情報は、関係性の中にあります。顔も名前も知らない隣人の状況は、把握しようがありません。日常のつながりこそが、災害時の判断材料になるのです。
体験エピソード④:マンションの「壁の薄さ」が防災の壁になっていた
私が支援した地域の中でも、特に難しかったのが都市部の分譲マンションのケースです。200戸以上が入居する大規模マンションでしたが、自主防災組織はあってもほとんど機能していませんでした。
理事会から「防災意識を高めたい」と相談を受けて訪問したとき、私がまず感じたのは「住人同士がお互いに干渉しない文化」の強さでした。廊下ですれ違っても挨拶をしない、エレベーターで乗り合わせても視線を合わせない、という状況が当たり前になっていました。
最初の防災説明会には、200戸中8世帯しか参加しませんでした。防災の話をしようにも、そもそも「来てもらえない」という壁に直面したのです。
私は方針を変えました。防災の話を前面に出すのをやめ、「マンション内のお茶会」という名目で気軽な交流会を月1回開催することを提案しました。参加費なし、手土産なし、ただ集まって話すだけの場です。
最初は10人に満たなかった参加者が、3か月後には30人を超え、半年後には「あの方、最近見かけないけど大丈夫かしら」という声が自然に上がるようになりました。
その後に行った防災説明会には、40世帯が参加しました。「知っている人がいるから来やすい」という声が多く、つながりを作ることが防災活動の入り口になると改めて確認できました。
防災を目的にした活動より、交流を目的にした活動のほうが、結果として防災力を高める——この逆説は、マンション支援の経験が教えてくれたものです。
体験エピソード⑤:「情報の共有」が命をつないだ震災後の3日間
私が最も忘れられない体験は、大規模地震の被災地に支援で入った際に見聞きした出来事です。
震災発生から3日間、ライフラインが止まり、外部からの支援も届かない集落がありました。その集落では、高齢者が多く、一人では身動きが取れない住民が複数いました。
しかし、その集落で死者は出ませんでした。
集落の住民に話を聞くと、「誰がどこに住んでいて、どんな状況か」を把握していた人がいたことが大きかったといいます。その方は自治会の役員でもなく、ただ「昔から顔見知りで、近所をよく歩く人」でした。
地震発生直後、その人は自分の家の安全を確認してから、すぐに近所を一軒ずつ回り始めました。「大丈夫ですか」と声をかけ、動けない人を把握し、健康な人に助けを要請する——この自然な行動の連鎖が、3日間を乗り越える力になりました。
支援に入った私たちが持ってきた物資よりも、住民が3日間で作り出した「助け合いのネットワーク」の方がはるかに機能していました。炊き出しの食料をみんなで分け合い、毛布を融通し、不安な夜を語り合って過ごした3日間の記録を住民が見せてくれたとき、私は防災の本質がここにあると確信しました。
備蓄は必要です。しかし備蓄だけでは乗り越えられないことがある。3日間を生き延びた集落が証明していたのは、「知っている人がいること」の圧倒的な強さでした。
今日からできる「つながり防災」のはじめ方
近所付き合いと防災の関係は理解できても、「では何からすればよいか」と迷う方も多いと思います。ここでは、無理なく始められる具体的な取り組みをお伝えします。
まず「挨拶」から始めることが最初の一歩です。朝のゴミ捨てや廊下ですれ違ったとき、一言「おはようございます」と声をかける習慣を作りましょう。挨拶は関係の出発点であり、「あの人は見かけた」「最近姿を見ていない」という気づきの基礎になります。
名前と顔を覚える努力も大切です。特に同じフロアや隣近所の方の名前を覚えることで、いざというときに声をかけやすくなります。
自治会や町内会の活動に一度参加してみることも有効です。「苦手だ」という方も多いですが、年に一度の防災訓練や清掃活動でも、顔を知る機会として活用できます。参加が難しければ、回覧板を手渡しする際に一言添えるだけでも変わります。
一人暮らしの高齢者や障がいのある方がいれば、さりげなく確認しておくことが防災上の大きな備えになります。「何かあったらお互いに声をかけましょう」という言葉ひとつが、避難のきっかけになります。
つながりは一日では作れませんが、一日目の挨拶から始まります。「いざというとき」のために動くより、「今日の日常」の中でつながりを育てることが、最も確実な防災準備です。
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よくある質問
Q1. 近所付き合いが苦手でも防災のつながりは作れますか?
苦手意識がある方は、深い付き合いを目指す必要はありません。顔を知っていて「こんにちは」と言える関係が、防災の観点では十分な出発点になります。マンションや集合住宅では、玄関ドアに名前を書いた小さなプレートを出すだけで、住民同士が名前を認識しやすくなります。深い交流よりも、「存在を知っている」状態を作ることが最初のゴールです。
Q2. 自治会に入っていなくても地域のつながりは得られますか?
自治会への加入は必須ではありませんが、地域の情報が入りやすいという利点はあります。加入していない場合でも、同じ建物内の住民や日常的に顔を合わせる近隣の方との関係を大切にすることで、十分な「つながり防災」は可能です。また、自治体によっては自治会に入らなくても参加できる防災訓練や交流イベントを開催していることがありますので、地域の広報などを確認してみてください。
Q3. 一人暮らしで近所に知り合いがいない場合、何から始めればよいですか?
まず、自分が「存在を知られている」状態を作ることをおすすめします。郵便受けや玄関に名前を出す、ゴミ捨ての時間帯を一定にして顔を合わせる機会を増やすといった小さな行動が効果的です。また、地域の自主防災組織や災害ボランティア活動に関わることで、防災を共通の関心事として知り合いを作ることができます。つながりを「もらう」より「作りに行く」姿勢が、一人暮らしの方には特に重要です。
🔍 防災士が15年で学んだ、近所付き合いが命綱になる理由をチェック
まとめ:命をつなぐのは、顔を知った隣人
15年間の防災活動を通じて、私が確信していることがあります。それは「最高の防災グッズは、隣人との関係性である」ということです。
食料や水の備蓄は大切です。避難経路を確認することも重要です。しかしそのすべてを揃えても、「あなたが今どこにいるか」を気にかけてくれる人がいなければ、いざというとき孤立してしまいます。
近所付き合いは面倒に感じることもあるかもしれません。しかし、一言の挨拶、名前を覚える努力、さりげない気遣いの積み重ねが、災害時に命をつなぐ力になります。
今日から、まずお隣の方に「おはようございます」と声をかけてみてください。そのひと言が、あなたと誰かを守る最初の備えになります。



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