
著者について
私は防災士の資格を取得してから12年間、地域の防災訓練の企画・運営に携わってきました。現在は神奈川県の沿岸部に住んでおり、東日本大震災の映像を見て以来、「自分の家族は本当に逃げられるのか」という問いと向き合い続けています。
防災士として多くの家庭の相談を受ける中で気づいたのは、「ハザードマップは持っているが、実際に避難経路を歩いたことがない」という家庭が圧倒的に多いという現実です。知識と行動の間には大きな溝があります。
私自身、資格取得直後は「知っているから大丈夫」と思い込み、家族と経路を歩いて確認することを後回しにしていました。その後悔が、今の活動の原点になっています。
津波避難の現状と課題
内閣府が公表している「津波避難対策の現状と課題」(2026年版)によると、沿岸部に居住する住民のうち、実際に避難経路を徒歩で確認したことがある割合は全体の30%程度にとどまっているとされています。
また、消防庁の「令和4年版 消防白書」では、地域住民が参加する避難訓練の実施率は年々向上しているものの、家族単位での自主的な経路確認訓練を行っている世帯は依然として少数派であると指摘されています。
津波の場合、地震発生から到達までの時間が地域によって大きく異なります。内閣府の南海トラフ巨大地震想定では、静岡・高知・徳島などの一部沿岸地域では地震発生後わずか数分で津波が到達する可能性があるとされています。「揺れが収まってから考える」という意識では、間に合わないケースが十分に想定されます。
国土交通省の調査では、避難の際に問題となる要因として「道路の渋滞」「夜間の視認性の低下」「高齢者や子どもの歩行速度の差」が上位に挙げられています。これらはすべて、事前に経路を歩いて確認することで対策を立てられる要因です。
さらに、内閣府の「防災に関する世論調査」(令和3年度)では、津波ハザードマップを「見たことがある」と回答した人は約60%に達したものの、「避難場所と経路を家族と確認している」と回答した人は約28%にとどまっています。
ハザードマップの普及は進んでいますが、それを実際の行動に落とし込めている家庭はまだ少数です。知識を持つことと、体で覚えることは別物です。防災士として多くの家庭に関わってきた経験から、この「行動のギャップ」こそが最大の課題だと感じています。
初めて家族と経路を歩いたときの失敗
資格取得から2年が経過した頃、ようやく妻と小学3年生の息子を連れて、自宅から指定避難場所までの経路を実際に歩いてみました。地図上では直線距離で約800メートル、「10分もあれば余裕だろう」と思っていました。
結果は、想定の倍以上の時間がかかりました。最大の誤算は「歩道の状態」でした。地図では問題なく見えた経路のうち、住宅地を抜ける区間は非常に狭い路地で、植木や駐車車両がはみ出しており、大人二人が並んで歩けない箇所が複数ありました。
息子は途中で「怖い道だね」と言いました。その言葉がずっと心に引っかかっています。子どもの目線から見ると、塀が高く薄暗い路地は、大人が思う以上に心理的なプレッシャーを感じさせる場所だったようです。
また、経路の途中に細い用水路があり、夜間や雨天時には転落リスクがあることに初めて気づきました。地図を見ているだけでは、こうした細部は絶対にわかりません。
この経験から、私たちは経路を一部変更し、少し遠回りになりますが幅の広い道路を使うルートに切り替えました。時間は数分増えましたが、安全性と心理的な安心感は格段に上がりました。「最短経路が最善経路ではない」というのが、このとき学んだ最も大切な教訓です。
夜間に経路を歩いて気づいたこと
昼間の確認から半年後、今度は夜間に同じ経路を歩いてみました。これは、地域の防災勉強会で「地震は昼間だけ起きるとは限らない」という話を聞いたことがきっかけです。
夜間の経路確認は、昼間とは全く別の体験でした。街灯が少ない区間が想像以上に長く、足元が見えにくい箇所が随所にありました。特に、昼間は気にならなかった段差や排水溝の蓋が、夜間には大きな障害に感じられました。
息子はこの夜間歩行に連れて行くか迷いましたが、実際に同行させました。「夜に逃げることになったときのために、今のうちに体で覚えておいてほしい」と説明したところ、息子なりに真剣に歩いてくれました。
このとき、懐中電灯の重要性を身をもって感じました。市販の小型ライトを一人一つずつ持って歩きましたが、足元を照らしながら前方を確認するのは思った以上に難しく、ランタン型の照明を避難リュックに入れることを決めました。
夜間歩行の後、家族で反省会を開きました。「ここが怖かった」「ここで迷いそうになった」という意見が自然と出てきました。地図を広げて一緒に確認しながら話し合うこの時間が、防災の家族会議として非常に有益でした。頭で考えるだけでなく、体験を共有することで家族の間に共通言語が生まれます。
義父母と一緒に歩いて見えてきた課題
翌年、妻の両親(当時70代前半)が遊びに来た際に、一緒に避難経路を歩いてもらいました。高齢者と一緒に歩くのは初めてでしたが、これが大きな気づきをもたらしました。
同じ経路でも、義父母のペースは私たちの約半分でした。途中に緩やかな上り坂がありますが、義母はそこで息が上がり、少し休む必要がありました。私が「問題ない坂」と認識していた場所が、70代の方にとっては休憩が必要な箇所だったのです。
また、義父は膝に古傷があり、段差の多い箇所では手すりを探す仕様子が見られました。普段は元気な印象があったため、この事実を把握していませんでした。「元気そうに見える」ことと「災害時にスムーズに避難できる」ことは、全く別の話です。
この体験から、私は「誰と逃げるか」を常に意識するようになりました。家族全員の身体的な状況を把握した上で、最も時間がかかる人に合わせた経路と時間配分を考えることが重要です。
義父母には後日、自宅近くのハザードマップと避難場所を確認するよう案内し、近所の方と一緒に確認できるよう民生委員の方にも相談しました。一家族の問題として閉じるのではなく、地域でつながることの大切さもこの経験で学びました。
子どもが一人でいるときの想定ができていなかった
防災士として講座を開いている中で、あるお母さんから「子どもが学校から帰宅した後、私がまだ職場にいる時間帯に地震が来たらどうすればいいか」という質問を受けました。
その瞬間、私は自分の家庭でも同じ想定ができていなかったことに気づきました。私たちが確認してきた経路は、常に大人が一緒にいる前提のものでした。息子が一人で家にいる時間帯のことを、十分に考えていなかったのです。
その週末、息子(当時小学5年生)に一人で経路を歩いてみてほしいと頼みました。私は少し離れた位置からついていく形で見守りました。息子は自信を持って歩き始めましたが、T字路で一瞬迷い、私の顔を確認しようとしました。
「一人だったら、どっちに行く?」と聞くと、しばらく考えてから「こっちかな…でも自信がない」と答えました。何度も家族で歩いていたにもかかわらず、一人になると判断に迷いが生じることがわかりました。
その後、息子が一人でも迷わないように「角を曲がるたびに目印を確認する」という方法を一緒に考えました。「コンビニが見えたら右」「青い屋根の建物の前を直進」というように、地図記号ではなく実際の風景を使った「子ども版経路メモ」を作りました。これを息子のランドセルのポケットに入れておくことにしました。
子どもの自律した避難行動を育てることは、防災教育の中でも特に重要だと、この体験を通じて強く感じました。
読者へのアドバイス
津波避難経路の家族確認は、一度やれば終わりではありません。道路工事や建物の建て替えによって経路の状況は変わりますし、家族の体力や年齢も変化します。私は少なくとも年に一度、経路を歩き直すことを習慣にしています。
まず取り組んでいただきたいのは、「地図を見る」ことではなく「実際に歩く」ことです。最初の一歩として、自宅から最寄りの津波避難場所まで、家族全員で歩いてみてください。
歩く際には以下の点を確認すると効果的です。最も時間のかかる家族のペースで何分かかるか、夜間や雨天時に視認性が下がる箇所はどこか、段差・用水路・狭い通路はどこにあるか、そして子どもが一人でも判断できる目印があるかどうか。
確認後は必ず家族で感想を共有してください。「怖かった場所」「迷いそうになった場所」を話し合うことで、次の対策につながります。
地域の防災訓練や自主防災組織の活動にも参加してみてください。隣近所で避難経路を共有することで、高齢者や障害のある方への声がけも自然にできるようになります。家族を守ることと、地域で助け合うことは、車の両輪です。
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よくある質問
Q. ハザードマップで自宅が津波浸水想定区域外なら、津波避難の準備は不要ですか?
A. 浸水想定区域外であっても、避難経路の途中が浸水区域に含まれる場合があります。また、想定を超える津波が来ることも完全には否定できません。内閣府の資料では、ハザードマップはあくまで「現時点での想定に基づく参考情報」であり、最大規模の災害を保証するものではないとされています。区域外であっても、経路の確認と家族内での話し合いは行っておくことをおすすめします。
Q. 小さな子どもがいる場合、避難経路の確認はいつ頃から一緒に行うのが良いですか?
A. 歩けるようになった3〜4歳頃から、「お散歩」感覚で一緒に歩き始めることができます。最初は防災の説明をせず、公園へ行くついでに経路を通るだけでも構いません。小学校低学年になったら「地震が来たらここに逃げるんだよ」と少しずつ伝え、高学年になったら一人でも歩けるかを確認するという段階的なアプローチが効果的です。経験上、子どもは繰り返し体験することで自然と経路を覚えます。
Q. 避難経路の確認は何人で行うのが良いですか?一家族だけで十分でしょうか?
A. 一家族での確認はぜひ行ってください。その上で、可能であれば隣近所の方と一緒に歩くことをおすすめします。近隣の方と経路を共有することで、災害時に声をかけ合う関係が自然に生まれます。特に高齢者だけの世帯や一人暮らしの方が近くにいる場合は、自主防災組織や町内会を通じて一緒に歩く機会を作ることが、地域全体の避難能力の向上につながります。
🔍 防災士が実践した津波避難経路の家族確認、試行錯誤の記録をチェック
まとめ
津波避難経路の家族確認は、地図を眺めるだけでは完成しません。実際に歩き、家族それぞれの目線で課題を見つけ、話し合い、改善していくプロセスそのものが防災力を育てます。
私が12年間の活動を通じて得た実感は、「防災は知識よりも習慣」だということです。完璧な準備を一度にしようとするのではなく、家族で年に一度経路を歩くという小さな習慣を続けることが、いざというときの行動につながります。
あなたの家族がどこに逃げるのか、どの道を通るのか、誰がどのペースで歩けるのか。その答えは、一緒に歩いてみることでしか見えてきません。今週末にでも、一歩踏み出してみてください。


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