
著者について
私は地域の調剤薬局に20年以上勤務してきた薬剤師です。日常業務では処方箋の調剤だけでなく、患者さんへの服薬指導や在宅医療への関わりも多く経験してきました。また、私自身が30代から高血圧と甲状腺疾患を抱えており、毎日欠かさず服薬を続ける「患者」でもあります。
この二つの立場から、持病薬の備蓄とお薬手帳の重要性を実感する出来事を何度も経験してきました。2011年の東日本大震災、2016年の熊本地震、2019年の台風19号による被災者支援の現場を通じて、薬が手に入らない状況がいかに命に関わるかを目の当たりにしてきました。この記事では、私の体験と専門知識を組み合わせて、持病薬の備蓄とお薬手帳の活用について具体的にお伝えします。
持病薬備蓄の現状──多くの人が「薬だけ」を忘れている
防災意識の高まりを示すデータとして、内閣府が実施する「防災に関する世論調査」(2023年度版)では、7日分以上の食料・飲料水を備蓄している世帯は全体の約40%にまで増加しています。一方で、同調査において「薬・医薬品」を備蓄していると回答した割合は15%程度にとどまっており、食料備蓄との間に大きなギャップが存在しています。
また、厚生労働省が公表している「国民生活基礎調査」のデータでは、65歳以上の高齢者の約8割が何らかの疾患で通院しており、そのうち複数の薬を服用している「多剤服用」状態の方も年々増加傾向にあることが示されています。若い世代でも、高血圧・糖尿病・てんかん・喘息・甲状腺疾患・精神疾患などで継続服薬が必要な方は決して少なくありません。
災害時に薬が手に入らないことがなぜ問題になるかを整理します。まず、慢性疾患の薬の多くは「急に飲むのをやめると危険」なものが含まれています。降圧薬を急に中断すると血圧が急上昇しやすくなり、脳卒中や心筋梗塞のリスクが高まります。抗てんかん薬を急に止めると発作が起きやすくなります。インスリンが届かない糖尿病患者さんは、短時間で生命の危機に陥ることもあります。
さらに、同じ薬でも商品名(先発品名)と一般名(成分名)が異なるため、避難所や救護所で他の医師・薬剤師が対応しようとしても、お薬手帳や処方箋のコピーがなければ正確な薬を特定するのが困難になります。厚生労働省が推進する「お薬手帳のデジタル化」が進んでいるとはいえ、スマートフォンの充電が切れる可能性も高い災害時に、紙のお薬手帳が今でも命綱になることを強調しておきたいと思います。
お薬手帳に記載すべき情報は薬の名前だけではありません。用量、服用回数、使用目的、アレルギー歴、そして処方した医師・医療機関の情報も含まれています。これらが一冊にまとまっているだけで、見知らぬ医師でも適切な対応を取りやすくなります。
2011年、東日本大震災後の支援活動で見た現実
2011年3月11日から約1か月後、私は薬剤師会の派遣チームの一員として被災地の救護所に入りました。避難所には、家を失い、薬を持ち出すことができなかった方々が大勢いました。
そこで最も多く聞いた言葉は「薬の名前がわかりません」でした。薬袋を持ってきていても、浸水してラベルが読めなくなったケースもありました。高齢の方の中には、「血圧の薬を飲んでいたはずだが種類はわからない」と話す方が少なくなかったのです。
処方薬を特定するためには、薬の形や色から推定する作業が必要になります。これは薬剤師にとっても時間がかかる作業であり、しかも多くの被災者が同じ状況に置かれているため、一人ひとりへの対応に十分な時間を割けない状況でした。
お薬手帳を持参していた方は、対応が格段にスムーズでした。薬剤師がひと目で内容を確認し、同等の薬を手配する流れが素早くできました。ある70代の女性は、お薬手帳を防水のジッパー袋に入れて通帳と一緒に持ち出していました。そのおかげで、複数の持病薬をほぼ途切れることなく継続できたのです。その女性は「夫に笑われながらも準備していてよかった」とおっしゃっていました。
一方で、私が大きく後悔したのは、自分自身の備えです。支援活動で被災地に入った際、私自身の甲状腺薬が途中で底をつきそうになりました。自分の薬の備蓄を考えておらず、かろうじて支援チームのサブリーダーに相談して対応できましたが、「医療者でさえ自分の薬を後回しにしている」という事実を痛感した瞬間でした。
台風被害で自宅孤立、3日間薬が届かなかった経験
2019年の台風19号で、私が住む地域でも甚大な浸水被害が発生しました。私自身は直接被災しなかったのですが、患者さんの一人であるAさん(60代男性・糖尿病・高血圧)が丸3日間、自宅が孤立した状態になりました。
Aさんは毎日服用するインスリン製剤と降圧薬を冷蔵庫で保管していましたが、停電で冷蔵機能が失われました。インスリンは開封後の保存可能温度に厳しい制限があり、高温下では急速に品質が劣化します。Aさんは「使っていいのかどうか判断できなかった」と後から話してくれました。
孤立が解消されたとき、Aさんはすぐに薬局に来てくれました。お薬手帳を持っていたため、薬の確認はすぐにできました。しかし、血糖コントロールが乱れており、その後しばらく数値が安定しませんでした。
この経験を受けて、私はAさんと一緒に「薬の備蓄と緊急時の保管計画」を作りました。インスリンを予備として保険適用外で購入しておくことは難しいため、かかりつけ医に相談して「次回処方を少し早める」方法を取ることにしました。また、停電時に備えた小型の保冷ボックスと保冷剤を常備するようにしました。こうした工夫は患者さん一人ひとりが医師・薬剤師と相談しながら作るものであり、私が薬剤師として果たせる役割の大切さを改めて感じた出来事でした。
自分自身の試行錯誤──備蓄の仕組みが定着するまで
先述の通り、私は高血圧と甲状腺疾患で毎日服薬しています。東日本大震災の支援活動の失敗を機に、自分の薬の備蓄に本腰を入れようとしました。しかしここで、いくつかの壁にぶつかりました。
最初の失敗は「余分にもらおうとすること」でした。処方薬は処方箋に記載された日数分しか受け取れません。保険ルール上、必要以上の量を処方してもらうことは原則認められておらず、薬剤師仲間にも「どうやって備蓄するの?」と聞いたところ、みんな同じ悩みを持っていました。
そこで気づいたのが「受け取るタイミングの前倒し」です。処方箋の有効期限は発行日から4日以内ですが、次回の診察を従来より少し早めてもらうことで、手元に残薬が少しずつ積み上がっていきます。かかりつけ医に素直に「災害時の備蓄のために」と相談したところ、快く応じてもらえました。医師も災害医療の文脈でこの問題を意識しているケースが増えているようで、相談のハードルは思っていたより低かったです。
現在の私の備蓄量は、高血圧薬・甲状腺薬ともに約2週間分です。これを一定水準に保つため、「残り10日分になったら次の診察を予約する」というルールを自分に課しています。薬を管理する小さな引き出しにポストイットで「10日を切ったら予約」と書いた付箋を貼っています。単純な仕組みですが、これが一番長続きしています。
お薬手帳を「育てる」ことの大切さ
薬局で患者さんに「お薬手帳はお持ちですか?」と聞くと、「家にあります」という返答が非常に多いです。持参していても、何年も前のシールが貼られたままで、アレルギー欄が空白のまま、緊急連絡先の記載もない──そんなお薬手帳を見ることは日常茶飯事です。
お薬手帳は持っているだけでは機能しません。情報を継続して更新し、必要な情報を追記していくことで初めてその価値が発揮されます。私が患者さんにお勧めしている記載項目は以下の通りです。
一つ目は、すべての服用薬の名前・用量・服用回数です。複数の医療機関から処方を受けている場合は、それぞれの薬を一冊にまとめることが重要です。二つ目は、薬や食品に対するアレルギー歴です。ペニシリン系抗菌薬や造影剤へのアレルギーは、緊急処置の際に知られていないと生命の危険に直結します。三つ目は、かかりつけ医と薬局の名前・連絡先です。四つ目は、緊急連絡先(家族の氏名・電話番号)です。五つ目は、手術歴・入院歴です。
また、お薬手帳をデジタルアプリで管理している方も増えていますが、スマートフォンが使えない状況を想定して、紙のお薬手帳も必ず併用するか、重要ページを印刷して防水袋に入れて保管しておくことをお勧めしています。
私自身のお薬手帳には、家族の連絡先・かかりつけ医の名前・アレルギー(特定の抗菌薬で発疹の既往あり)を自分で手書きしています。薬剤師仲間と話すと「自分のお薬手帳が一番更新できていない」という声をよく聞きます。専門家であっても、自分のこととなると後回しにしがちです。これは患者さんも同じで、「わかっているのにできていない」状態に共感を持ちながら一緒に考えることが、私の服薬指導の根底にあります。
読者へのアドバイス──今日からできる5つのステップ
持病薬の備蓄とお薬手帳の整備を始めるにあたり、難しく考える必要はありません。今日からできる具体的なステップをお伝えします。
ステップ1:かかりつけ医・薬剤師に相談する
「災害時の備蓄のために、少し多めに処方してもらうことはできますか?」と率直に相談してください。医師・薬剤師は防災文脈での相談に慣れてきています。
ステップ2:お薬手帳を一冊にまとめる
複数の医療機関からの処方がある場合は、一冊のお薬手帳にすべてのシールを貼るようにしましょう。薬局に申し出れば対応してもらえます。
ステップ3:アレルギー欄・緊急連絡先を今日書く
お薬手帳を今すぐ取り出して、アレルギー欄と緊急連絡先を記入してください。これだけで、万一の際の対応が大きく変わります。
ステップ4:防水袋に入れて保管場所を決める
お薬手帳と処方箋のコピー(直近のもの)を、防水ジッパー袋に入れ、避難袋のすぐ取り出せる場所に入れておきましょう。
ステップ5:残薬の「補充ルール」を決める
「残り〇日分になったら次の受診を予約する」という自分なりのルールを決め、目に見える場所に書いておきましょう。
インスリンや特定の薬は常温保存できないものもあります。保管条件は処方薬の説明書か担当薬剤師に確認し、停電時の対応(保冷ボックスの準備等)も合わせて考えておきましょう。
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よくある質問
Q. 処方薬を余分に備蓄することは保険診療のルール上、問題になりませんか?
A. 保険診療において、医師が処方できる日数は症状や薬の種類によって上限が定められています。そのため「余分にもらう」という方法は原則として難しいです。現実的なアプローチとしては、処方日数の範囲内で次回受診を少し早める「前倒し受診」が最もトラブルが少ない方法です。また、処方箋には「使用期間」が設けられており、期限内に薬局で受け取れる量は処方通りとなります。備蓄の意図をかかりつけ医に正直に伝えて相談することを強くお勧めします。
医師が状況を理解すれば、医学的に適切な範囲で対応策を一緒に考えてくれることが多いです。
Q. お薬手帳アプリと紙のお薬手帳、どちらが防災時に有効ですか?
A. 両方を使うことが最善です。アプリは情報の更新がしやすく、スマートフォンが使える状況ではすぐに提示できます。一方、停電・電池切れ・スマートフォンの破損が起きやすい災害時には、紙のお薬手帳が確実です。紙とデジタルを補完的に使い、かつ重要情報(薬の名前・アレルギー・緊急連絡先)を印刷して防水袋に入れておくことが実践的な対策です。
Q. 家族の分の薬も管理しなければならない場合、何から始めればいいですか?
A. まず家族全員分のお薬手帳を一か所にまとめて保管することから始めましょう。各人のお薬手帳に緊急連絡先と主治医名を記入し、防水袋に入れた上で「防災用書類ファイル」として避難袋の中に入れておくと管理しやすいです。子どもの場合、学校や保育園への提出書類(アレルギーや薬の使用状況)のコピーも同封しておくと、避難所での対応がスムーズになります。薬の種類が多い場合は、家族ごとに一枚の「薬一覧表」を作成しておくことも有効です。
🔍 持病を抱えて20年、薬剤師が教える持病薬の備蓄とお薬手帳の活用法をチェック
まとめ
持病薬の備蓄とお薬手帳の整備は、食料や水の備蓄と同じく、あるいはそれ以上に優先すべき防災対策です。薬剤師として20年以上の経験を持つ私自身が、何度も「備えておけばよかった」と後悔してきた領域でもあります。
大切なのは「完璧な備蓄システムを作ること」ではなく、「今日一つだけ行動すること」です。お薬手帳を防水袋に入れること、アレルギー欄を記入すること、残薬の補充ルールを決めること──どれか一つから始めてください。
持病を抱えながら生きることは、備えを持つことで少し安心になります。自分の薬を守ることは、自分の命を守ることです。ぜひかかりつけの医師・薬剤師と話し合いながら、自分に合った備蓄の仕組みを作ってみてください。


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